江戸時代の俳人、小林一茶は、「目出度さもちう位也おらが春」、とよんだというが、言葉どおりの意味にしたがえば、今日、たいがいの日本人は、この句をくちずさんでも、おかしくはない状態にある。自分の暮らしぶりは中流(中の上・中・下)であると答える日本人は90%をこえ、しかも、生活にはおおむね満足していると答える人びともかなり多いからである。この傾向は、昭和三十年代から四十年代にかけての経済の高度成長によって、都市化が急激に全国にひろがり、日本全体があたかも一つの都市に変貌してしまった、いわゆる都市化社会の成立の時期、つまり四十五年頃から始まつている。
こういう状態は、どこから生じてきたのであろうか。
高度成長のもとに加速された都市化は、少なくとも二つの社会変動をふくんでいた。第一に、非農業人口すなわち都市人口が増大しただけではなく、その流動化とりわけホワイトカラーとブルーカラーの差の縮小、グレーカラーの台頭もみられた。第二に、家族はその形態と機能を大きく変えた。夫婦とその子どもから成る核家族が増加し、また外部の機関や施設に強く依存する家庭生活が普通になった。第二に、これらの変動とともに、所得水準の向上、自由時間の増大などが手伝って、従来とは基本的に異なる、個人中心の生活様式が普及してきた。中流意識は、このような都市化を背景に成長し、そして定着した、と思われる。
しかし、都市化は、文化変動とも深くかかわっている。都市化は価値ないし価値意識の変化と同時に展開してきたのである。価値といっても多様であるが、ここでは自由という価値に注目すべきであろう。いうまでもなく、経済の高度成長は、自由主義経済の体制のもとで達成されたものである。しかし、自由は、経済だけではなく、政治、社会、文化のどの分野においても、かなり強調されるようになった。ただし、自由主義経済の体制におけるこの自由は、競争(competition) とだきあわせになっている、ということを忘れてはなるまい。自由のあるところには、どこにも必ず競争がある。中流意識は、このような文化変動とからみあって、成長し定着した、といわなければならない。
中流意識と自由・競争の価値意識
もともと、都市というのは非農業人口が大量に密居するところである、と常識的には考えられてきた。また、都市には人間を自由にする空気があるといわれ、あるいは弱肉強食の激烈な競争があるといわれてきた。たしかに、近代の資本主義の発達は、大量の非農業人口が集住し、自由と競争を基調とする都市の成長を意味したのである。
この都市の成長を、よくもわるくも、もっとも端的に、かつ敏感に反映したのは、サラリーマン(給与生活者)やホワイトカラーであり、その生活様式であった。都市文化といえば、きまってサラリーマンの生活がひきあいにだされたし、今日でも、都市文化の先端にはホワイトカラーの生活様式がもちだされるのである。このサラリーマンやホワイトカラーが、中流階級といわれ、新中間層といわれてきた人びとであることは、いうまでもなかろう。都市化と中流意識はやはり深く関連しているわけである。
ところが、今日、非農業人口は流動化し、生活様式も一様化してくるなかで、多くの人びとが中流意識をもち、生活に満足感をいだくようになった。これはいわゆる同調(conformity)といわれる傾向にはかならず、階級意識のある種の同質化を意味している。しかし、人びとの自由と競争の価値意識はもちろん存続しており、むしろ強められたといってよいだろう。これはある種の異質化(相異、格差、離脱、自己主張など)を促さずにはいない。
都市化社会におけるこのような状況は、いったい何を意味するのであろうか。そもそもその実態はどうなっているのであろうか。そして、そこにはどんな問題があり、これにどう対処したらいいのだろうか。以下、これらの問題について、核家族の構成員である、子ども(青少年)、妻(主婦)、夫(主人)の、それぞれの生活にそくして考えてみよう。ここで念頭におく家庭は、もちろん、ホワイトカラーのサラリーマンのそれである。
「勉強」にゆらぐ子どもの世界
高学歴社会における進学志向
中流意識をもち、生活に満足しているのは、なにも大人だけにかぎったことではない。青少年も同じで、九割までが中流意識をもち、八割以上が生活に満足している。それに、暮らし方については、「趣味に合った」(57%)、あるいは「のん気に暮らす」(17%)暮らし方が歓迎される傾向も強い。
しかし、青少年の生活意識には、進学(受験)志向、あるいは高学歴志向が、はっきりと貫いていることも事実である。こうして、誰でもが同じような意識をもち、同じような生活を送り、同じような進学志向をもっている、ということになる。
ここで問題にしたいのは受験体制、高学歴志向である。いうまでもなく、この受験体制、高学歴志向が、青少年の生活を大きく方向づけているからである。この受験体制は、おそらく、「一流」や「名門」の幼稚園←小学校←中学校←高校←大学を主軸にしてつくられており、とくに高校や大学の選択は、かの有名な偏差値によって、ほぼ決定される、という仕組になっている。高校や大学のランク(格)は一目瞭然であって、だから、そこに入学した人間のランク(劉)も一目瞭然となる。この受験体制は、もちろん、競争を原理としており、この競争に勝つための至上命令はただ一つ、「勉強しろ」である。
もっとも、青少年のすべてが高学歴志向をもち、大学をめざすわけではない。高校までは94%も進学するようになっているが、大学までは46%が志願し、32%が進学している(高校卒業者を100とした場合の比率。いわゆる大学進学率は37%)。大学までの進学率はむしろ小さく、しかも、ここ数年は停滞している。しかし、見落としてならないのは親が子にもつ大学進学の希望である。親は、とくに男の子については、実に71%も大学進学を希望し、女の子については22%しか希望していない。しかも、子どもが大学に進学できるだけの学力をもっていながら、学費などを負担できそうにない場合、大半は、「借金してでも大学に行かせる」と考えている。親はどうやら高学歴社会をかなり強く意識しているらしいのである。
子どもの生活は進学のための勉強が中心
親のこの態度は子に影響しよう。実際、青少年は「今の社会では学歴が低いと高い地位、高い収入がえられない」し、「学歴が低いとひけめを感ずることが多い」として、高学歴社会を認める傾向は強い。しかし、「どうしても高い学歴を身に付けたい」(21%)のは少なく、「学歴にはこだわっていない」(73%)のが多い。とはいいながら、必ずしも進学を選択しないわけではない。そのうち二人に一人は進学を選択しているのが実情なのである。これには多分に親の希望が影響しているであろう。
親の子に対する進学希望は、このように非常に大きく、それは、ともすれば子どもの意向をふみこえて、進学を求め、受験を強いることになろう。親は子どもの顔をみれば、「勉強しろ」とせきたてるのである。
だから、もちろん、子どもの生活は、「勉強」が十分にできるように、さまざまに配慮される。というより、「勉強」を唯一の軸とする子どもの生活が組み立てられる。そもそも小学生から自分の部屋(子ども部屋)をもっているばあいがふつうになった。もちろん、学習用品・器具、学習参考書などは十二分にあたえられ、遊ぶ時間が減っても、勉強時間が増えれば、それは何よりも嬉しがられる。
学校の勉強だけでは不十分であるとみなされれば、ちゅうちょなく家庭教師をつけられ、学習塾もどしどし利用される。
しつけも「勉強」が中心に行なわれる。幼稚園から知識(読み書き知る)が偏重され、小学校に入っても、教科の学習が重視されるから、衣服、食事、衛生、家事、規則などに関するしつけは、二の次、三の次で、いとも簡単に軽視される。中学校、高校に入っても、しつけの基本は、もちろん「勉強しろ」である。小・中学生のばあいであれば、「勉強」に深く関係する読書(本を読め)や整理(机のまわりをかたづけろ)の注意も、まだ、ひんばんに行なわれるのである。
受験勉強の苦労ぐらいてへこたれるな
こうして子どもは「勉強」中心の生活を送り、親もそれを期待する。それなら、それほどまでに「勉強」する目的はいったい何か。それは、もちろん自分が立派な大人になるためということになるが、ありていにいえば、高校、大学への進学のためであり、就職のためである。「一流」の高校や大学に入り、「一流」の企業や官庁に職を得ること、それがとりもなおさず立派な大人になることにほかならない。それで、子どもはその気になって「勉強」するか、あるいは、親のいうままに「勉強」するか、どちらにせよ、「勉強」はしなければならない。
もっとも、この「勉強」は激烈な、それだけに苛酷な競争をともなっている。競争は子どもをふる 。
いにかけ、「エリート」を残し、「落ちこぼれ」を生む。受験勉強は、だから、それだけに批判の的にされやすいし、実際、それがおよぼす子どもへの影響ははかりしれない。しかし、だからといって、親の子どもに対する期待はこれで決してゆらぎはしない。小。中学校の生徒の母親のばあい、「受験勉強で少しぐらい苦労するのはやむをえない」(58%)と考えるか、「受験勉強で苦労するのはむし 綱ろいいことだ」と考えて、受験勉強を肯定する傾向が強いのである。受験勉強の苦労ぐらいでへこたれるようでは駄目だ、といった態度がここにはある。これは居直りのようにもみえるが、むしろ一種の正当化といったほうがいいかもしれない。
親の子に対するこの態度には、子どもの意向を汲み、それを尊重するという気配は、あまりないょうにみえる。子どもは自主的に「勉強」するのではなく、他律的に「勉強」させられるわけである。
少なくとも小・中学生の段階では、その傾向がきわめて強いといってよいであろう。親は子どもをかなり強引に自分の考える方向に引っ張っていこうとする傾向がみられるのである。
男の子は専門技術職、女の子は先生職業に対する希望によって、この傾向をみることにしよう。「勉強」の目的がめざす学校に入り、めざす職業に就くというのであれば、親と子の職業に対する希望がどうなっているか、面白い問題になってくる。
今の小中学生の希望は、男ならば、専門技術職(16%)、事務職(14%)、タレント(11%)、労務職(6%)、専門職(5%)が上位をしめ、これで半数をこえている。女であれば、先生(26%)、タレント(9%)、事務職(6%)、芸術家(6%)、主婦(6%)が上位をしめ、やはりこれで半数をこえる。
これに対して、母親が子に就いてほしい職業は、男では、事務職(21%)、専門技術職(20%)、先生(8%)、専門職(7%)、労務職(7%)が五位までをしめ、64%に達している。女では、先生(29%)、主婦(17%)、事務職(12%)、看護婦(5%)、芸術家(4%)が五位までをしめ、67%におよぶ。総じていえば、少なくとも希望順位からいって、母と子の希望は一致する傾向にある。ただし、タレントや主婦は別であって、これらの職業(主婦は職業ではないが)は、母と子の間にギャップがあり、子が希望しても、母はこれを必ずしも歓迎していないか、またはその逆になっている。
子と母の職業に対する希望や期待を父の職業との関係でみると、さらに興味ぶかい結果がでてくる。第一に、父の職業を希望し期待する傾向は母と子に、とりわけ子より母に強い。ただし、農林漁業は母の期待より子の希望が上回っている。しかし、それよりも、第二に、母は子以上に、専門技術職、専門職、事務職を期待し、逆に、農林漁業、労務職、自営業を敬遠する傾向にある。とくに、タレントは子に人気があるのだが、どの母もこれはほとんど敬遠している。つまり、父の職業を子に期待する傾向はあるにせよ、少なくとも半数以上は、ほかの職業を期待する傾向が強いのである。
子どもも母親もホワイトカラー希望
もう少しはっきりいえば、こうなる。つまり、父親の職業では、ホワイトカラー(43%)がもっとも多いのだが、ブルーカラー(30%)とグレーカラー(23%)は、あわせれば、ホワイトカラーよりも多い。ところが、とくに母はブルーカラーやグレーカラーよりは、はっきりと、ホワイトカラーを期待し、子はその期待にこたえるかのように、ホワイトカラーを希望するのである(男と女の子では差はあるが)。
もっとも人気があるのは、もっとも都市的な職業、ホワイトカラーである。とするならば、「勉強」にはげな、「一流」の学校に進学し、要するにホワイトカラーをめざすことになろう。このホワイトカラーこそ、いうまでもなく、中流階級の典型であり、中流意識の基点である。
もちろん、子も母も、ホワイトカラーをめざすのには、それなりの理由があるだろう。それはおそらく、きわめて単純にいえば、現在のような、子も母も、そして父も、「中流」の生活にそれなりに満足できる中流階級に属するためには、もっとも無難で安定した職業であるホワイトカラーになるのがもっとも近道ではないか、と考えられているからであろう。したがって、中流意識というのは、ここでは、ホワイトカラーの生活の「保守」志向、「安定」志向をその特質としているといってよさそうである。
多くの子どもと母親がホワイトカラーを希望し、期待するとすれば、ホワイトカラーになるための「勉強」は何よりも重要になり、その競争も、おのずから熾烈にならざるをえない。「一流」の高校や大学への進学も決して思いのままにならないことはいうまでもないであろう。
受験競争は、偏差値によって、高校にランクをつけ、ついで大学にランクをつけた。青少年は希望する進学がそのままかなえられることは少なく、偏差値によって割り振りされて、必ずしも希望しない進学をしいられるのである。
きびしい競争、希望にそわぬ進学
実際に、中学校の卒業生は、94%も高校へ入学するようになっているし、高校の卒業生も、32%は大学へ入学するようになっている。これはすでにみたところだが、しかし、高校入学のばあい、94%の進学の内訳は63%が普通科、31%が職業科になっており、普通科が選択される傾向が強い。この傾向は特に昭和45年頃からはっきりあらわれてきている。つまり、大部分の人びとが中流意識をもつようになったその時期から、いっそう、大学進学も考慮して高校は普通科を選択するようになった。もっとはっきりいえば、ホワイトカラーになるための「勉強」に、それまでよりも精を出すようにならたのである。
もちろん、苛酷な競争による子どもの割り振りは容赦なく進行した。子どもの希望は必ずしもそのまま実現せず、だからおそらく、それだけ親の期待も裏切られたのである。
これを大学進学の場合についてみよう。そもそも、大学進学を希望する高校生が、卒業の年に大学進学を果たしているのは、47%しかいない。しかも、大学も専攻も希望どおりになったのは、そのうちの40%にとどまっている。だから、大学に入学しても、大学・学部。学科を変えたいと思っている学生、大学をやめたいと思っている学生は決して少なくないのである。それに、もともと大学進学を希望しなかった大学生(これは親の期待にこたえただけか)さえもいる。
ちなみに、高校生が卒業の年に、希望どおり就職したのは、92%に達している。しかし、そのうち、職種の点からいって、希望どおりになったのは六四%で、そうならなかったのは36%におよんでいる。だから、ここでも、ほかの会社や仕事に変わりたいと思っている青年は、決して少なくないのである。
いずれにせよ、このように、青少年の競争はきびしく、自分の思い通りにはなっていないのだが、もちろん、競争は大学進学で終わるわけではなく、大学を卒業する時も、そして就職してからも、続いてゆくことになる。