主婦の座というのは、誰にもよく理解できる明確な地位であり、しかも、ふだんは、少々のことでは決してゆるがない地位でぁった。しかし、この都市化社会においては、それはかなり怪しくなってきている。主婦とは何か、主婦の座とは何か、だんだん分からなくなってきたのである。

たしかに、主婦とは「主人の妻で、 一家をきりもりしている婦人。女あるじ」(『広辞苑』)であると説明されている。社会学では、社会調査などにおいて、主として家事を担当する既婚の(または○○歳以上の)女性をいう、などと説明されたりする。主婦の役割がそれなりに固定していれば、この説明でも十分に納得されよう。ところが、主婦の役割は、今日では、かなり分散してしまっている。そのために、主婦の座というのは、どうもよく分からないものになってきたのである。

その理由は少なくとも二つ考えられる。
第一に、家庭の生活様式が大きく変化したことである。とくに、便利な電気器具や家庭用品が普及し、家事の処理はきわめて能率的・合理的に誰にもできるようになった。食事の準備でさえ、インスタント食品、冷凍食品、レトルト食品、メニュー食材の宅配などや、あるいは弁当や外食など、気軽に利用できるから、別に面倒でも困難でもなくなった。

第二に、主婦のもっとも重要な役割と目されてきた育児のような仕事ですらも、保育所や幼稚園をはじめとする機関や施設に大きく依存するようになったことである。これは「生活の社会化」といわれているものだが、同じ傾向はもちろん、ほかにもいろいろと現われてきた。つまり、家庭内で行なわれてきたけれど外部の機関や施設に肩代りしてもらうようになった仕事がふえ、あるいは家庭内ではもはやできないから外部の機関や施設に依頼せざるをえない仕事がふえたのである。

第二に、第一と第二の理由も関係するが、共働きやパートの女性が非常に多くなったことである。今日、家庭の主婦は、共働きとパートをあわせて、50%近くまで、働くようになっているという。それも、40歳以上の中高年主婦から、40歳以下の比較的若い主婦に、中心が移ってきた。しかも、働いていない主婦の40%ほどは、就業したいと希望しているといわれる。ともあれ、女性は男性と同じように職場に進出してきたわけである。

それても「主婦」への期待は大きい

こうなると、主婦の役割はかなりあいまいになってこざるをえない。なにせ、主婦にしかできない家事、主婦がやるべき家事など、次第にせばまり、かつ流動的になってきたのである。「夫は外、妻は内」といった伝統は、もはや通用しないようにみえる。専業主婦、兼業主婦といった、流動的な状況を反映した流行語も、色あせようとしているようである。とすれば、当然ながら、女性の主婦としての地位は、それだけ軽いものになり、いわゆる主婦の座はゆらぐことになる。

とはいえ、この傾向は、裏返していえば、男性の主人としての地位が、それだけ軽くなってきた、ということも意味している。主婦の座がゆらいできただけではなく、主人の座もゆらいできたのである。さらにいえば、母と父の地位と役割が流動的になり、家族の人間関係も大きく変化してきたことにもなる。

しかし、現実には、それでもなお、主婦には従来どおりの役割を期待するむきは強く、女性もそれにしたがおうとする姿勢を持っている。母は女の子には大学進学をあまり希望せず(しても短大まで)、就職も主婦(賀)を期待する気配があったことを想起されたい。本人たちも、たとえ就職しても、将来の地位の向上をめざすのは少なく、それよりも、結婚の相手の地位こそ、自分の地位を決めてしまうと自覚している。重要なのはやはり主人であり、主人の地位なのである。そういう意味では、主婦の座は女性をひきつける力をまだまだもっている。この主婦の座は、たとえ兼業主婦であれ、「妻は内」の性格をもたざるをえず、本人もそれを甘受するのである。もちろん、だからといって、その主婦の座がいつまでも維持されるという保障はどこにもない。主婦の座は(同時に主人の座も)、大きくゆらいできているからである。

もはや主婦の座というのは、その実体があいまいな、一種の幻想でしかないように思われるのである。

夫の出世を助け、子の「東大」進学に仕える

しかし、幻想ではあれ、主婦の座は、それなりに自覚されているといっていい。それなら、それは、どんなふうに現われているのか。

男性も女性も、結婚するまでは、自分自身の問題に関心をもつ傾向は強いが、結婚して子どもをもつと、女性(主婦)のばあいは、 とくに家庭内の問題に関心が集中する傾向にある。 その内容は多分、家族の健康、家計・物価、毎日の買物・料理などであろうが、子どもの進学・就職、夫の賃金・出世も、ふくまれているはずである。家庭外の問題でも、家庭に関連の深い問題、すなわち、交通事故、公害、経済。物価、地震・台風などに関心をよせる傾向がある‐。要するに、家族の安全で安定した生活をひたすら願っているわけである。

主婦の役割として期待されてきたことは、まさにこの安全で安定した生活を守ることではなかったか。主婦は、そのために、自分自身のことはさしおいても、家計をなんとかやりくりしながら、夫の仕事o成功を内から助け、子どもの養育に奉仕し、もって世間に顔むけできるよう、とくに気を配ったのである。この主婦としてのつとめは、今日なお期待されており、しばしば強調され宣伝ざれるときもある。

夫の出世実現を果たすあなた1高齢化社会の「定年革命」に追い詰められる夫の、少なくとも足を引っ張らない7つの心得
①妻は夫の私設秘書であれ
②夫に買い物を頼むな
③頼みごとを催促するな
④いつでも働ける準備をせよ
⑤下手な口出しをせず、夫を見守る妻であれ
⑥賢母たれども賢夫人になるなかれ
⑦会社関係の交際は難しいが、夫の上司の奥さんと仲良しになるのは上策

夫婦と親子 東大への道「舗装学」子を名間中学に入れる親の心得
①まず親(あなた)が何かを学ぼうと努力していること。……知的向上努力を何もしない親が、勉強せよといっても、反発を生むだけだ。
②適度な運動。睡眠を欠かさず″老人病〃を避ける(「子どもの老人病症候がふえている」から)。
③食事も高カロリーより、ビタミンやミネラルを重視する菜食型がいい。
④落ちても別のチャンスがあるのだから気楽に挑戦させる。……過大な期待は子どもをダメにする。

中流意識を持ち続けるための努力

世間に顔むけできるような生活は、いいかえれば、普通の生活であり、世間並の生活にほかならない。それは周囲(世間)の人びとに並ぶ生活であって、「上」でも「下」でもない、まさに「中くらい」の生活である。中流意識の原型はここらにあろう。もっとも、周囲(世間)は、今日では日本全体にまで拡大しており、世間並は、いわば日本並を意味するまでになった。

90%をこえる日本人が中流意識をもつようになった理由の一つは、家庭の生活様式がほぼ似たようなものになり、しかもそれに一応は満足感をおぼえている点にあろう。都市化社会の全体にわたって、生活様式は一様化してきたのである。しかし、この中流の生活を維持していくためには、主婦もそれ相応の努力が必要である。

第一に、中流の水準をささえる生活様式は、どんどん変化するから、それに遅れないように努力しなければならない。生活のあらゆる面での流行を、さまざまの情報を通じて、つねに敏感にとらえ追いかける必要があるのである。第二に、夫の仕事・出世を助け、子どもの進学・就職を導く、主婦としてのつとめを立派にはたさなければならない。その努力をしてみせること自体、もはや流行の一つになっている観がある。しかし、それにしても、その努力をしていくならば、それで世間に顔むけできて世間の体面は守れるし、それ以上に、主婦自身の地位を高めるようになろうというものである。

いずれの努力をするにせよ、第二に、費用がかかるから、それをなんとか正面しなければならない。主人の給与だけでやりくりするか、きりつめて倹約するか、それでも不足なら主婦自ら働くか、何らかの手を打つ必要があるのである。主婦の家事の負担は大幅に軽減され、主婦の職場進出もかなり目立っているという事態は、すでにみたように、主婦の座をゆるがせているのだが、皮肉にも、主婦としてのつとめをはたす助けにもなっている。

「虚栄の市」の現代日本版

このように、主婦は、同じような中流の生活を維持していこうと、懸命の努力をつづけている。あたかも、中流の生活というバスに乗りおくれまいとしているかのように。しかし、この意欲はどうしても競争をさけるわけにはいかない性格のものである。しかも、競争はしばしば見栄を張り、体裁をつくろい、外聞や世評にこだわる風潮を生みだし、要するに「虚栄の市」の世界をつくってしまう。

そこで重要なことは、中流の生活を送っているかどうかではなく、それがどんな方法によっているか、その中身はどうなっているか、である。

潜入取材レポート ああ、すさまじきは女の虚栄心
建売り族の実態は?
力ーテンひとつにも細心の配慮 「だって、ごらんになったァ。川口さんのとこ、通りに面している応接間のカーテンはちょっと豪華そうだけど、三階の窓、あれ1メートル二百円ぐらいの布地よ。あたしなんか、とても恥ずかしくて、あんなマネできないわ」

団地族の実態は?
とにかく「差」をつけたい女心 「やだ、アチラと一緒にされたくないわよね。五階の住人ときたら、晴れた日には、シーツをかけたままの布団をズラーッと全部並べるんだから。私たちはちゃんと布団乾燥機があるもの」

社宅族の実態は?
ゴミは高級品を選んで捨てる「海外駐在でも、欧米組はエリート社員。後進国は非エリートと分かれているのね。そのためか、後進国組の奥さんたちのなかには、ゴミ置場に捨てるゴミですらも、「神戸和牛みそ漬け」とか、メロンの空き箱などになると、わざと見えるように置くのね。ゴミ捨て日は週二回しかないので、どうしてもだれかと顔を合わせるでしょ。そのときが勝負なのよ。/ウワサによれば、デパートヘ行って、空き箱や包装紙だけをわけてもらい、ゴミ捨て日に精いっぱい気どるって人もいるけど

自由時間にも虚栄心が働いている

ところで、今日、人びとは多くの余暇、いいかえれば自由時間をもてるようになった。もちろん、主婦も例外ではない。労働時間も家事時間も短縮してきたからであり、平均寿命も延びてきたからである。とくに、子育てが一段落する50代以降になると、自由時間はそれまで以上に増大してくるのである。

主婦の自由時間は、料理、読書、編もの、洋裁・和裁、トランプなどのいわば日常的な家庭の活動にあてられる傾向があり、これは学生時代からそれほど変わっていないという。見物や鑑賞などは、家族のほか、隣人、知人、親族などと一緒に、家族のつながりを中心とした人間関係のなかで、行なわれることが多い。ピクニックや旅行もこれと同じであろう。いずれにせよ、いかにも「主婦らしい」イメージがただよっている。最近では、趣味・芸術・芸能などの活動や体育スポーツ活動(これは30代に多い)などが、かなり活発になってきた。いわゆるカルチャースクールや趣味の教室などの繁昌ぶりは、それを示している。

しかし、このような自由時間の使い方にも、競争意識が潜在し、虚栄心が働いているらしい。「心の3C」というのをご存知だろうか。昭和三十年代は「白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫」の三種の神器の時代であった。四十年代は、「カー、クーラー、カラーテレビ」の3C時代といわれた。

50年代は心の3C時代である、というのである。しかし、どうやらこの3Cは、虚栄心の3Cになっているらしい。

「カルチャー(教養)、コミュニティ(地域性)、クリエート(創造)」
これが「心の3C」といわれるものだ。

これまで日本人が追い求めてきた「物質」では、幸福とか心の平和が得られないことに気づき、これからは自己の教養を深め、地域社会との結びつきを保ち、創造力を身につける時代がやってきたということである。

そういう意味の使われ方なら、たいへん結構なことなのだが、この新3Cを、またもやステータスと考える人がいるのも事実のようだ。つまり、教養では、子息を名門学校に入れることを望み、主婦たちもカルチャーセンターヘ通う。コミュニティの地域性を、サークル活動に置き替え、テニスクラブや読書会に入っていることを自慢する。そしてもう一つのクリエートでは手作り志向である。

たしかに、主婦の自由時間の使い方にも虚栄心が働いている面もあるにちがいない。しかし、問題は、なぜそうした面がでてくるのか、という点にある。

主婦も深刻な問題に直面している

主婦が多くの自由時間をもつようになったにせよ、主婦の座が幻想になっている以上、主婦として自由時間を有効に使うことは容易ではなかろう。たしかに、主婦は主婦として懸命に努力している傾向はうかがえる。しかし、主婦は何をどうすればいいのか、本当のところは分からない、というのが真相であろう。いいかえれば、主婦としての自己(アイデンティティ)が失われているのである。だから、懸命に努力するとしても、それは「みんながするようにする」だけであって、それが競争意識にむすびつき、虚栄心を生むことにもなるのであろう。

もともと主婦の座というのは、自分自身をさしおいて、夫のため、子どものためにつくし、家を守り支えていくのが役割であった。ここにはすでに主婦の役割を遂行していくかぎりでの自己の存在しか認められていない。ところが今、自己の存在の唯一の基盤であるその主婦の役割が、まさにあいまいになってきたのである。やや極端にいえば、主婦は右往左往するしかなくなったわけで、この点にかかわって起こる問題は深刻である。

離婚、蒸発、自殺、アルコール症、売春、麻薬(覚せい剤)、うつ病、嬰児殺し(子殺し)など、主婦のあいだで、このところ目立つようになってきた問題は多い。これらの問題は、いわば主婦としての役割が分からなくなってきたために、右往左往しながら、試行錯誤を余儀なくされている、主婦の姿を端的に示している、ともいえるのではなかろうか。主婦もまた、孤独と自立の問題に直面しているのである。